日記・コラム・つぶやき

2019年3月13日 (水)

森鷗外『舞姫』読後感

遥か昔、森鷗外の『舞姫』を読んだ記憶がある。

しかし、其れは幽かな記憶であって、“読書”と呼ぶには程遠い。作品の鑑賞とは別物で、単に知識としての「あらすじ」を知ったに過ぎない。

其れは、「作者」と「作品」とを「マークシート」で埋めるような、謂わば国語テストという類である。今思えば、「あらすじ」すら、後日の映画などで、記憶が補てん・補完されたという“疑惑”すら持つ。

多くの人は、作品云々の以前に、森鴎外(本名:森林太郎)の実像に躊躇するであろう。文豪であり、医師である。且つ、漢文に優れ、外国語学にも秀でたこの実在人物を、天才と呼ぶは決して誇張ではない。

夏目漱石ですら、ロンドン滞在中は「悶々たる孤独の日」を送ったの比して、鷗外は、現地の多様な人物と(現地語で)交わり、それを「楽しんだ」という。

そのマルチ・タレントぶりは、他に類をみない。

その滞在中の実体験を基にして、ドイツ語から日本語へ、言語変換するようにして『舞姫』を執筆したのであるから驚く。時に、明治23年、鷗外28歳であった。

五~六年前だったが、上野に女房と花見に出かけた。二人で徘徊中、偶然にも、「此処で、舞姫を執筆したという」森鴎外旧宅に出会った。隣のレストランでは、『舞姫ランチ』を食べる。

久しぶりに、鷗外の残影との再会だった。

『舞姫』は、古文の技巧が至る箇所に散在し、その上、意味を持つ漢語が骨組みとして文章を支えている。それ故、現代語に慣れ親しんだ小生には、難解なものになっていた。

二度三度、味読した。

何故、『舞姫』を古文の技巧で書いたか?舞姫エリスへの切なく悲しい恋情を表現するには、恐らく白居易の『長恨歌』を彷彿とする“漢詩のような詩”が最適である。

それは、恋に落ちたエリート官僚の持つ“秘かな自尊心”でもある。

帰途の船中、主人公(我)は「幾度となく我が心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨みを銷(せう)せむ。若し外の恨なりせば、詩に詠じ歌にもよめる後は心地すがすがしくもなりなむ。」と吐露してしている。

これは、文に認めた詩でもある。

エリスとの出会いは、「鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつつ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。」と、恋の予兆すら無い。

だが、間もなく、「暫し涸れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬を流れ落つ。」と変化する。

主人公(我)は、「公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ」。

エリスへの恋情は、「その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしを奈何にせむ。」と益々進境する。

物語は、果して悲恋で終わる。

悲恋は、エリート官僚の、あるいは実像の天才・森鴎外の宿命である。それは、生来の人間嫌いをしのばせる鷗外の叶わぬ恋愛の結末である。

そうであるが故に、『舞姫』は美しいのである。

================

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年3月 9日 (土)

夏目漱石『明暗』読後感

遂に、夏目漱石の『明暗』を読み終えた。70過ぎの老人には、贅沢な自由時間があるとは雖も、視覚能力の低下で読書は難儀な事である。

某ハズキルーペのように、「字が小さ過ぎて読めない!」このコマーシャルに不思議と説得力を感ずるのである。

此の大作を読むのに、「明治の文豪に対する畏敬の念」もあって、一日4時間~5時間、総計ひと月も費やした。

それ故に、「遂に」と、感嘆詞を吐露するような達成感がある。其れは、久しぶりの充実感でもある。

常日頃、小説を読み進むと、物語の≪結末≫が気になる。その為、私は、物語の結末だけを知るために途中の展開(推理)をすっ飛ばして読む癖がある。

小説の場合、途中の展開(推察)にこそ楽しみがある。それは、読書家の秘かな悦楽であるが、私は、此の「読書家」の楽しみを知らずに人生を過ごしたようだ。

と云うのも「長編」の場合は、結末にゴールインする前に、断念する事がある。ところが、幸いなるか『明暗』は、未完の小説である。それ故に、私は小説の≪結末≫を気にすることなく、平常心で読めた。

途中まで読むと、不思議な事に次の展開が気になる。その様にして、ゆっくりと味読することが出来た。私は、この「悦楽」を初体験したのである。

晩年の夏目漱石は、病身のまま絶筆となった小説『明暗』を書く毎日だったという。午前中は、『明暗』の執筆、午後は、漢詩(就中、七言律詩)の作詞に耽っていたという。

小説には、内面の「思索」が多い。また、漢詩の影響が色濃く映されている。それは、語彙力の豊富さと共に、定型詩の持つ韻の美しさ(対句の妙など)である。

私は、小学生のように大きな文字で、漢字の学習をした。漢字の楽しさを知っているのは、世界中で日本人なのではないか?とさえ思った。時には小説家になるつもりもないのに、気に入った文章を書き写したりする。

YouTubeで音楽を聴き乍らの至福の時間であった。次は、その抜粋の一部である。

然し彼としては時々吉川家の門を潜る必要があった。それは礼儀の為でもあった。義理の為でもあった。又利害の為でもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。 「津田は吉川と特別の知り合いである」 彼は時々こういう事実を脊中に脊負って見たくなった。

彼はすぐ玄関から茶の間に通り抜けた。 茶の間は何時もの通りきちんと片付いていた。鉄瓶が約束通り鳴っていた。長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座布団が、彼の帰りを待ち受ける如く敷かれてあった。

この長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って他愛なく時間のために流されていた。 彼等は穏和かであった。彼等は楽しそうに見えた。

粗放のようで、一面に緻密な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先では冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父

これが彼女の論法(ロジック)であった。又希望であった。最後の決心であった。

はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量した。

彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌もなければ気高くもなかった。ただ厄介なだけであった

彼等の所作は単調であった。しかし勤勉であった。特別な意味が附着していた。小説的に組み合わせても見た。

そして、小説『明暗』は、次の表現と共に未完となった。

「奥さん」と云おうとして、云い損なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。 「貴女は何時頃までお出です」 「予定なんかまるでないのよ。宅から電報が来れば、今日にでも帰らなくちゃならないわ」 津田は驚いた。 「そんなもの来るんですか」 「そりゃ何とも云えないわ」 清子はこう云って微笑した。 津田はその微笑の意味を説明しようと試みながら自分の室に帰った。 -未完ー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年3月 2日 (土)

囚われない自由な読書

002
/
◆まだ寒い
河津桜は満開だが、当地は半袖で外出するにはまだ寒い。
桜と云えば、日本人の感性を揺さぶる。その代表作は、西行の歌であろう。
・・・・・・・・・・・・
願はくは 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
☆……☆……☆……☆
◆死生観
桜は、日本人に生まれて良かった!と感じる重要な要素。そして、桜は日本人の死生観にも通じるので、この歌には、あらゆる喜怒哀楽を共有する精神の塊があると思う。
女優の樹木希林さんは、ロック歌手で良人の内田裕也の「朝日のあたる家」を聴きながら逝きたい、と洩らしてた。それも死生観として在りだ。
☆……☆……☆……☆
◆70歳を過ぎて発見すること
まだ寒いので、爺は自宅に籠って、「乍らテレビ」を観ながら、雑誌・小説を脈絡なく読むだけの毎日。
現在進行形で、夏目漱石の『明暗』を読んでいる。
恥ずかしい話だが、夏目漱石の代表作とされるものは、十代のころ『坊っちゃん』を読んだ切り。此の歳に至るまで読んではいない。
それ故、女房は「突然変異」と冷笑するが、70歳過ぎての読書は,知る事(新たな出会い)が多い。
☆……☆……☆……☆
◆伊豆修善寺にて
今まで、情報源の殆どは、偉い先生の講話、テレビ・ラジオだった。
数年前、夫婦旅行で伊豆修善寺に行った事がある。そこの旅館は、漱石が胃腸病を療養した処である。
宿泊した近所に『漱石記念館』があり、行ってみる。漱石の俳句やら漢詩やらが展示されていた。その中で、一句の俳句が心に這入った。
生きて仰ぐ 空の高さよ 赤とんぼ
☆……☆……☆……☆
◆生きる悦び
病床に臥せていた身を起こし、空を仰ぐとそこには赤とんぼがスイスイ飛んでいた、生きる悦びを表現した作品。何処となく、正岡子規の感性に近い。
療養中、漱石は次の漢詩を残している。
・・・・・・・・・・・・・・
無題(五言絶句)
仰臥人如唖 仰臥(ぎょうが)人唖(あ)の如し
黙然見大空 黙然(もくねん)大空(たいくう)を見る
大空雲不動 大空雲動かず
終日沓相同 終日沓(よう)として相同じ
・・・・・・・・・・・・・・
仰向けに寝たまま,唖(おし)のように黙りこくっていると、
大空が見えた。
大空には雲がじっと動かずにいて、
一日中、雲と私は、果てしなく共にそこにあった。
☆……☆……☆……☆
◆日常生活と二人三脚
私は、極端に読むスピードが遅い。その為、半月かかても未だ半分くらい。
午前中は、『題名の音楽会』を鑑賞。テレ朝では、最も好い番組と言える。TBSでは、『ドラマ』が面白い。娯楽番組は好きだが、不自然に政治を揶揄する内容の無い番組は敬遠する。好きな時に読書する。
こんな具合だから、小説『明暗』は、まだ半分である。小説『明暗』は、私の日常生活と、二人三脚で、ゆっくり、ゆっくり進んで居るのである。
☆……☆……☆……☆
◆囚われない自由な読書法
私は、文芸評論家ではないので、読書感想をレポートする義務はない。
其れを遣るか遣らないかは私の自由だ。それを囚われない自由な読書法だと、自己満足している。
東大の阿倍公彦教綬は、「夏目漱石スペシャル」で、次の様に述べている
・・・「古典的名著なのだから、私は感動すべきだ」、自らを不自由な暗示にかけたり・・・マジメな人ほど・・・予断をもってしまう。と、作品と「出会う」ことを勧めている。私は、読書の強迫観念から覚めて、自由を得たのである。
============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月23日 (土)

≪漢詩鑑賞≫赤壁(杜牧)

三国志のハイライトと言えば、呉の周瑜(しゅうゆ)、蜀の劉備(りゅうび)が連合し、魏の曹操(そうそう)の百万の水軍を打ち破った、所謂、赤壁の戦いである。
蜀の諸葛孔明が、風乞いをして東風を呼び、魏の水軍を火攻めにして全滅させる場面は、映画『レッドクリフ』でも再現されている。
この詩は、赤壁の戦いから約600年の後、杜牧が“歴史の地”に足を踏み入れ、詠んだ七言絶句『赤壁』である。
☆……☆……☆……☆
Yjimager5kmf73m
☆……☆……☆……☆
折戟(せつげき)沙に沈んで鐡(てつ)未だ銷(しょう)ぜず
自ずから摩洗(ません)を将(も)って前朝を認む
東風周郎(しゅうろう)が与(ため)に便(べん)ならずんば
銅雀(どうじゃく)春深うして二喬(にきょう)を銷(とざ)さん
☆……☆……☆……☆
折れたほこ(折戟)が、川岸の砂にうずもれて、その鉄がまだすりへっていない(銷ぜず)。
そこで、その折れたほこを手にとって(將って)、水洗いしてみがく(磨洗)と、それはまさしくあのころ(前朝)のものであった。
もし、東風が呉の周瑜(周郎)のため(与)に吹いてくれなかったならば(便ならずんば)、
あの曹操(銅雀)のために、春も深いころ、絶世の美女である喬姉妹(二喬)は、捕らえられ手ごめにされていただろう。
=============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月 2日 (土)

≪漢詩鑑賞≫王維、美的世界

晩唐の詩人、王維は大詩人であると同時に、画にも書にも、音楽の才にも恵まれていた。
「半官半隠」(半分官吏で半分隠者)という気楽な立場から、気の合う友人と閑適の生活を楽しみ、数多く優れた詩を残した。
日本の遣唐使の阿部仲麻呂などと親交もあった。
☆……☆……☆……☆
鹿柴(ろくさい)
空山不見人  空山人を見ず
但聞人語響  但だ人語の響きを聞く
返景入森林  返景森林に入り
復照青苔上  復た照らす青苔の上
☆……☆……☆……☆
田園楽(でんえんらく)
桃紅復含宿雨  桃は紅にして復た宿雨を含み
柳緑更帯春煙  柳は緑にして更に春煙を帯ぶ
花落家僮未掃  花落ちて家僮未だ掃わず
鴬啼山客猶眠  鶯啼いて山客猶お眠る
☆……☆……☆……☆
辛夷塢(しんいお)
木末芙蓉花  木末芙蓉の花
山中発紅萼  山中紅萼を発く
澗戸寂無人  澗戸寂として人無し
紛紛開且落  紛紛として開き且つ落つ
☆……☆……☆……☆
元二の安西に使いするを送る
渭城朝雨浥軽塵  渭城の朝雨軽塵を浥おす
客舎青青柳色新  客舎青青柳色新なり
勧君更盡一杯酒  君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西出陽関無故人  西のかた陽関を出づれば故人無からん
===========

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月21日 (月)

≪漢詩鑑賞≫白頭を悲しむ翁に代る(劉希夷)

Img951b6b17zikfzj

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年12月15日 (土)

≪漢詩鑑賞≫菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る(陶淵明の世界)

上記タイトルにある「菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る」は、陶淵明の漢詩『飲酒』からの出典であり、自然に溶け込んだ如何にもゆったりとした心持を表現している。
この詩は、陶淵明自身が、役人生活を辞し故郷の田園に隠居した時の作品であり、物事の深い所を悟ったかのような名作である。
『田園の居に帰る』(陶淵明41歳の作)では、性本愛邱山。誤落塵網中。(性本邱山を愛す。誤って塵網の中に落ち)と、間違って、役人生活(塵網の中)に入ったとあるように、役人を辞してから(役人生活の束縛からの解放)の名作が多い。
その「悟り」の内容については、説明不可能(此の中に真意有り、弁ぜんと欲すれば已に言を忘る)として、突き放している。
いかにも隠者詩人の面目躍如、というところである。
☆……☆……☆……☆
Insyu
☆……☆……☆……☆
(いおり)を結んで人境(じんきょう)に在り
而も車馬の喧(かまびす)しき無し
君に問う何ぞ能(よ)く爾(しか)るやと
心遠ければ地自ら偏(へん)なり
菊を東籬(とうり)の下に采り
悠然として南山を見る
山気(さんき)日夕(にっせき)に佳(よ)
飛鳥(ひちょう)相与(とも)に還る
此の中に真意有り
弁ぜんと欲すれば已に言を忘る
===========

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月30日 (金)

≪漢詩鑑賞≫王十八の山に帰るを送り仙遊寺に寄題す(白居易)

白居易の生涯は、唐代の詩人の中では、一度の左遷以外は安定していて、その詩は、我が国平安朝文学にも大きな影響を与えた。
この詩の、王十八とは、白居易が尉(事務官)のころ知り合った友人の王質夫のことで、彼が都から故郷の山に帰っていくのを見送った、送別の歌である
※因みに、王質夫は、玄宗と楊貴妃の悲恋物語の、時と共に消滅してしまう事を惜しんで、白居易に歌をつくることを勧めた。
こうして『長恨歌』が作られたのである。(白居易35歳の作品である)
☆……☆……☆……☆
王十八の山に帰るを送り仙遊寺に寄題す
曾於太白峯前住  曾(かつ)て太白峰(たいはくほう)前に於いて住し
數到仙遊寺裏來  数(しばしば)仙遊寺裏に到りて来る
黒水澄時譚底出  黒水澄む時譚底(たんてい)出て
白雲破處洞門開  白雲破るる処洞門(どうもん)開く
林閒暖酒焼紅葉  林間に酒を暖めて紅葉を焼(た)
石上題詩掃緑苔  石上に詩を題して緑苔(りょくたい)を掃(はら)
惆悵舊遊無復到  惆悵(ちゅうちょう)す旧遊(きゅうゆう)復到る無きを
菊花時節羨君廻  菊花の時節君の廻(かえ)るを羨(うらや)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かつて、太白峰の前に住んでいた時には、
しばしば仙遊寺に出かけた
黒水の流れが澄むと、その時、淵の底(譚底)まで見え
白雲が風に切れると、そこには洞穴が口を開けていた
林の中で赤く色づいた落葉を焼いて酒の燗をしたり
石の上に緑の苔を払いのけて、詩を記したりして遊んだものだ
あの楽しかった旧遊の地へ、もう二度と訪れることがないかと思うと、ひたすらにさびしく悲しまれる
菊の花も薫ろうとするこの時節、あなたはあの山へとお帰りになる。とてもうらやましいことです。
==============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年11月12日 (月)

≪漢詩鑑賞≫登高(杜甫)

洞庭湖のながめは素晴らしいと昔から聞いていて、一度来たいと思っていた。
今はからずも流浪の旅の末に来た。
なるほど、聞きしにまさる景色だ。
・・・杜甫57歳の作品である。
☆……☆……☆……☆
岳陽楼に登る(杜甫)
昔聞洞庭水  昔聞く洞庭の水
今上岳陽楼  今上(のぼ)る岳陽楼
呉楚東南坼  呉楚東南に坼(さ)
乾坤日夜浮  乾坤(けんこん)日夜浮かぶ
親朋無一字  親朋(しんぽう)一字無く
老病有孤舟  老病孤舟有り
戎馬關山北  戎馬(じゅうば)関山の北
憑軒涕泗流  軒に憑(よ)れば涕泗(ていし)流る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昔から洞庭湖の壮大さについては噂に聞いていた
今、岳陽楼に上って、眼前にその湖面を眺めている
呉と楚は、それぞれこの湖によって東と南に引き裂かれており
その湖面には、天地宇宙全てのものが昼夜の別なく影を落として浮動している
さて、今の私には、親類や友人から一字の便りさえなく
この老い病む身に、ただ一そうの舟があるだけだ
思えば、今なお戦乱が関所や山を隔てた北の故郷では続いている
楼上の手すりに寄りかかっていると、涙が流れ落ちるばかりである
============

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月25日 (木)

縄文人の躍動~in千葉市加曾利貝塚

5d255f8cc1d42ce616ca1a51a53cc6e2
(加曾利貝塚全景)
昨日は、千葉市若葉区にある加曾利貝塚博物館を見学した。
私は、千葉市に永年住んでいて、加曾利貝塚を見学したのは初めてだ。
たが、縄文時代の貴重な史跡が、きちんと保存されている。
館長さんの明快な説明もあり、実に興味深い見学だった。
時代的には、紀元前2000年~3000年頃だが、縄文人は、想像以上に知恵があり、関東近隣との交流が出土品から伺われる。
縄文人の躍動が伝わるようだ。
「貝塚」と呼ぶくらいだから、すぐ近くまで海が迫っていたのかと思っていた。
だが、実際にはそうではない。
千葉市の地形は、高い山が無い(加曾利博物館近くで海抜35mほど)平坦な地形である。
従って、海に繋がる川は、流れが緩やかで、満潮時には海水が上流まで押し寄せ、干潮時には遠浅の海まで川水が届く。
その潮の干満を利用して、満潮のピークには船(筏?)で下り、遠浅の海で貝を採り、干潮のピークには、海水に乗って上流の集落まで戻る。
千葉市の平坦な地形を利用した、見事な知恵である。
館内には、縄文時代中期の「加曾利E式土器」が展示された。その見事な出来栄えに驚いた。
貝塚が残る台地上には、大規模な集落遺跡があり、想像力が刺激される興味深い見学だった。
Src_11141420

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧