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2019年6月

2019年6月28日 (金)

文学者などの「政治参加」について

◆政治家の登竜門=テレビ出演

芸能人の「政治参加=テレビ出演」というのは、視聴率から流行のようだ。

土曜日朝のTBS番組でのくりーむしちゅう上田晋也氏などは、「喋り」のプロだけあって流暢な司会振りである。

上田氏を、国会議員「候補者」としてスカウトする政党があるかも知れない。そんな予感すらある。

兎も角、政治家の登竜門は、テレビ出演の露出度であろうと思う。

◆こくみん目線(?)という武器

尤も、政治家とて素人のような人物もいるから、プロとアマの差は、政治については難しい。

これら「素人司会者」の元祖は、TBS日曜日の関口宏氏であろう。

兎も角、素人の「政治」批判が目立つ。

政治素人を「武器」にした、「こくみん目線(?)」の辛辣な批判が多い。

◆国民目線の被害者=麻生太郎

例えば、麻生財務大臣が「(自身の)年金受領額」を知らない事、などは批判のやり玉である。

しかし、私個人としては「麻生氏の生活費」よりも「国家財政」が大事である。

某芸能人が、「辺野古埋め立て反対」の署名集めを呼び掛けた事があった。自由にどうぞ!という感じだ。

政治素人が、政治参加すると、話題になる。インパクトもある。それだけに、注目される。

◆対談・吉本隆明×江藤淳

話は変わるが、以前、図書館で『対談・吉本隆明×江藤淳』で読んだ。

吉本隆明と江藤淳と言えば、著名な文学者であるが、思想的あるいは政治的な立場としては、対極にあると思われていた。

つまり、革新vs保守と言われる安易な政治的図式である。

しかし、二人の原点は文学者(=言語を駆使した表現者)であり、政治家あるいは政治活動家ではない。

◆デモに参加する時は、一市民として

政治を話題にしても、あくまで文学者として「語る人」に過ぎない。

江藤淳は、文学者の「政治参加=デモ参加」を批判して、大江健三郎を例に挙げていた。

吉本隆明は、「俺と、大江健三郎を一緒にするな」「俺が、デモ参加する時は、一市民として参加するだけ」と憤慨していたように思う。

つまり、「デモ参加は、文学者としての側面ではない」「何の関係もない」という明確な発言である。

私も、大江健三郎の小説を面白く読むが、大江健三郎の「反原発・反戦デモへの参加」について、何の感慨も起こらない。

◆開戦前夜の小林秀雄

小林秀雄は、昭和15年11月「中央公論」で、次の様に文学者の「政治参加」につて語っている。

「文学者は思想を行なう人はなく、思想を語る人だ。口説の徒で充分である」と。

昭和15年当時は、日米開戦の前夜である。

文学者と雖も国家非常時に於いて、戦意高揚すべきその時期に、小林秀雄は、文学者としての「戦意高揚」を拒否しているのである。しかし、それは厭戦でもない。

◆戦争に対する明確な定義(=政策)

次の様にも述べている。(抜粋)

例えば、戦争という事でも、これは非常に大きな政策であるが、決して巧い政策とは言えない。

この「戦争」に対する明快な説明(戦争=政策)は、忘れがちであるが重要な指摘である。

一文学者としては、飽くまでも文学は平和の仕事である事を信じている。一方、時到れば喜んで一兵卒として戦う。

これが、僕らの置かれている現実の状態であります。何を思い患う事があるか。戦に処する文学者としての覚悟などという質問自体が意味を成さぬ。

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2019年6月25日 (火)

自由な言語空間≪インターネット≫を保証する自由で健全な社会に!

◆政治ネタ

連日テレビを観ていると、ワイドショーのネタは、日替わりで尽きない。

芸能人の結婚・離婚・不倫ネタが多い。

その他は、皇室とスポーツ等である。

視聴率向上の為に、いろいろな切り口がためされているようだ。

私は、テレビで、「政治」報道番組を観る。

しかし、どれも出演者の「発言」が終わると同時にCMに移行する。

「議論」はない。

消化不良が多い。

◆政治討論は「プロパガンダ」

NHK日曜討論も、同じ。

持ち時間の範囲内で各党の「プロパガンダ」である。

司会者は、議論の「深まり」よりも、出演者の「発言時間」の均衡に配慮する。

勿論、判断するのは私達だ。

だから、「議論をまとめる」必要はない。

其れで良いのだ。

それが政治だ。

◆政治と文学

小林秀雄が「政治と文学」の中で、政治というものは虫が好かない、と書いている。

その中で、次の逸話を紹介している。

ある外国の雑誌にこんな漫画が出ていた。酒場で二人の紳士が殴り合って、二人とものびている、介抱しているボーイさんが、こんな事を言っている。

「だからあれ程申し上げたじゃありませんか、うちでは平和論だけはお断りしています」と。

(読んで、思わず笑った)

次の様にも書いてある。

政治の対象は、何時も集団であり、集団向きの思想が操れなければ、政治家の資格がない。

◆青木理という饒舌家

最近、青木理という自称ジャーナリストが、「安倍批判」を繰り返す姿がある。

この人は、TBS、テレビ朝日で、レギュラーを持っていて、テレビ露出度が高い。

その喋り方は、アナウンサーのように饒舌である。

ジャーナリストは、本来「文筆家」だが、この人の場合は、アジテーターである。

いや、朝日新聞で慰安婦デマを書き続けた吉田清治と同じ類の詐術師、と見做した方が良い。

先日の『サンデープロジェクト』(TBS)では、青木理の韓国擁護と安倍批判が突出していた。

関口宏も「何故、日韓首脳会談を避けるのか?」と安倍総理を批判していた。

発言は自由だが、余りにも一方的だ。

◆何を監視するのか?

青木理には、「権力を監視することが、(我々)ジャーナリストの役割だ!」とする「自尊心」があるようだ。

「ジャーナリストが権力を監視する」・・・この言葉には疑問を感じる。権力を監視するのは、国民であって、ジャーナリストなどではない。と私は考える。

ジャーナリスト=国民、ではない。

彼は流暢に、民主主義の名の下に、「反権力」を口にし、民主主義の名の下に、「平和」を口にする。

しかし、「民主主義」を言うならば、ムッソリーニは「ファシズムは進歩した民主主義」と定義した。だろう。

だから、「民主主義」「平和」を口にする者は、信用できない。と確信すべきである。

一方、青木理は、言論の場を封じる。

◆自由な言語空間

「自分に対して批判的な」ネット論調を、「根も葉もない」と批判する。

勿論、ネット論調も色々あって、玉石混合で、フェイクも真実も混ざっている。

しかし、インターネットは、自由な言語空間であって、国民による監視機関である。

監視対象は、権力もあるが、メデイア側もある。

ネット論調を批判するのは自由だ。

これを規制するならば、共産党独裁政権下の中国のように、恐ろしい「ネット規制」社会=言論監視社会になる。

インターネットは、既存マスコミと違い「自由な言論空間」を保証しなければならない。

言論の自由、最後の砦、それがインターネットである。

 

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2019年6月21日 (金)

「前代未聞の暴挙」(辻元・蓮舫)という麻生氏への稚拙(ちせつ)な批判

◆北朝鮮の宣伝戦

「敵の暴挙を打ち砕き、無慈悲な鉄槌を浴びせる」などという大袈裟な表現が、北朝鮮公報の特徴だ。

しかし、声だけ大きくて、説得力が伴わない。現実感もない。

だから、慣れると、「犬の遠吠え」のようにしか聞こえないのである。

◆この手の脅しに離れた

それが、北朝鮮の宣伝戦である。我々日本人は、この手の脅しには、少々慣れて来た。

ところで、本題に入るが・・・。

私は、「前代未聞の暴挙」(辻元・蓮舫)から北朝鮮の宣伝戦を連想した次第である。

日本共産党の「常套句」にも、相似する。

◆麻生太郎氏への集中攻撃

野党は、“金融庁の報告書を受け取らなかった”麻生太郎財務大臣に対して、「不信任決決議案」「問責決議案」の集中攻撃を行なった。

辻元清美らは、麻生太郎が報告書の“受取り拒否した事”を以て、「前代未聞の暴挙」と、カメラの前で広言したのである。

こういう大袈裟な表現は、北朝鮮の宣伝戦あるいは日本共産党の「常套句」と相似関係にあると、思えてならない。

◆大袈裟だが、心に響かない

即ち、「前代未聞の暴挙」とは、詩的表現においても心に響かない。

「暴挙」と表現するだけなら・・・そっと、見逃してもよいだろう。

だが、「前代未聞の・・・」と強調すればするほど、(正直言って)稚拙に聞こえる。

「政治家は、言葉が命」と批判する割には、桜田氏の「失言」を笑えないではないか。

◆借り物の言葉

寧ろ、生活感(現実感)が無い分だけ、辻元清美・蓮舫の「言葉」が稚拙に聞こえる。

桜田氏は、「失言」でも彼の生(ナマ)の言葉である。

だが、辻元・蓮舫の「言葉」は、何処かの「反日」ジャーナリズムからの「借り物」なので、質が悪い。

衆院の本会議で、野党が提出した麻生太郎副総理兼財務大臣に対する不信任決議案を与党多数で否決した。

続く参院でも麻生氏の問責決議案が淡々と否決された。

◆与良氏は、ギターの名手

毎日新聞の与良正男氏は、「麻生さん、もう限界だ」と嘯いている。

「安倍政権」が追い詰められている様に言うが、実際、詰められているのは「野党」の方である。

TBSでは、与良さんのプロフールには、何故だか「ギターの名手」「ロック音楽に詳しい」とフレーズが加わる。

主観的な感想で、「麻生氏を揶揄する」のは自由だ。言論の自由は、与良氏にもある。

だが、愛嬌のある与良さんには、「言論」よりも好きなギターを弾いている方がお似合いだ。とだけ言っておく。

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2019年6月19日 (水)

本日の党首討論~従来論争の延長線上に在り

◆党首討論「観戦」

本日、15:00から党首討論のテレビ中継があり「観戦」した。

安倍総理大臣vs立憲枝野、国民玉木、共産志位、維新片山の各党代表が「討論」した。

予算委員会の「質疑」とは違い、反論も含めて“双方向”の議論するのが、党首討論の趣旨(意義)である。

しかし、本日の感想は、従来論争の延長線上であり、ツマラナイ内容であった。

◆片山虎之助の正論

「時間が短い」という指摘もあろうが、時間の問題ではない。

最初から、野党は、揚げ足取りなどで議論を封じる。選挙を意識した「宣伝戦」「国会=選挙対策」が、目的である。

その為か、野次軍団を動員していた。

最後の維新・片山虎之助の正論、即ち「野党は、反対ばかりではなく、対案も含めて議論すべき」があった。これが唯一の「議論」だった。

野党席からは罵声、与党席からは疎らな拍手が沸いた。

◆ツマラナイ・・・原因

総じて、プロ野球などで「消化試合」を観るよりツマラナイ。

ツマラナイと感じるのは、どこからくるのか?

恐らく次の点であろう。

野党による批判の焦点が、「(麻生大臣の)報告書を受け取らなかった行為」に集中している事である。

これは、片山虎之助も含めて、マスコミジャーナリズムが総じて、「受け取るべき」として、麻生大臣を批判している。

世論調査でも「受け取るべきだった」が80%くらいになるようだ。

◆受け取らない選択肢もある

しかし、私は、此れについて異論がある。何故、受け取るべきか?拒絶することは出来ないのか?

即ち、麻生大臣が、「受け取らない」という選択肢(拒絶意思の表明)は、十分ありうる。

その理由は・・・、例えば、部下の「辞表」提出に対して、上司が「受け取らない」として、部下に対して翻意を促すことがある。「受け取らない」のは、部下に対する温情の一種である。民法上、「受け取り拒否」は不法行為ではない。

「報告書」については・・・、金融庁も、「誤解を招く」と反省しているのだから、「受け取らない」事は、何ら問題ない。

◆「隠ぺい」とは日本語の間違い

枝野党首らは、此れを以て「隠ぺい体質」としたが、弁護士としては、あり得ない“言葉使いの間違い”である。

(報告書を)「受け取らないこと」と「隠ぺいすること」とは日本語の意味が違う。

それに、「報告書」そのものは、既に、公開されているので、「隠ぺい」など無理な事ではないか。

「隠ぺい体質」などと批判するのは、一部マスコミと野党の常套句で、安易すぎる・・・間違った言葉遣いである。

◆何故受け取らないのか、を説明している

メデイアの「切り取り」報道では、世論も「受け取るべきだった」となりがちである。

しかし、私は、金融委員会などで、蓮舫と麻生太郎大臣の、この議論の詳細をYouTube観る限り、『報告書』を受け取らない、とした麻生太郎大臣の説明は、十分納得できる。

麻生太郎氏は、『報告書』には誤解を招く箇所があるので、政策立案の資料として(報告書を)受け取らない、といっている。

それだけの事で「隠ぺいする事」ではない。麻生太郎氏は、そして安倍総理も、丁寧に答弁している。

その他、実質賃金か、名目賃金か?などの経済の捉え方は、従来の論争のままである。このくらいにする。

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2019年6月17日 (月)

全拉致被害者の即時一括帰国=この方針は変わらない

◆拉致問題とは、何か?

それは、北朝鮮による現在進行形の国家犯罪である。此れは、疑いもない事実である。

しかし、一方では、日本の国内問題でもある。

具体的に言えば、第一にマスコミジャーナリズムの責任。第二に政治の責任。

その様に考える。

◆マスコミジャーナリズムの責任

拉致問題の本質を「国家主権の侵害」「過去の犯罪ではなく、現在進行形の国家犯罪」と捉えない。産経新聞以外は、拉致の事実を無視し、スルーした。

田原総一郎は、「めぐみさんたちは、すでに死んでいる」等、事実無根のデマを流布し、「被害者を返せ!」という国民感情を逆なでした。

断っておくが、死んだという「遺骨」も偽物であった。そうである以上、「生きている」という前提で、拉致対策がある。

めぐみさんたち被害者は、「今も、生きて」日本政府による救助を待っている事は、脱北者の証言等で明白である。

◆政治の責任

金丸訪朝の時は、既に、「拉致の事実」が、梶山国家公安委員長の国会答弁で明らかになっていた。

しかし、金丸氏は、拉致には「一言」も触れないで「謝罪」と「援助」のみを明言し、拉致を交渉の俎上にする「チャンス」を逃した。

日本政府が、もっと毅然として北朝鮮と「対峙」していれば、拉致は解決していたかもしれない。

そう思うと痛恨の極みである。

◆安倍総理への期待は揺るぎない!

だが、幸い、日本国の安倍総理は、何一つ諦めていない。

「日朝会談に意欲」を燃やす。トランプ大統領とは綿密に連携を保っている。

しかし、時間はない。

拉致問題は、「被害者・家族の高齢化」という時間との闘いでもある。

◆家族会も高齢化

去る5月19日の『国民集会』では、安倍総理・菅官房長官をはじめ、拉致議連の先生方、地方議員が臨席していた。

家族会の方は、飯塚会長や横田滋さんが欠席していた。明らかに、「被害者・家族の高齢化」が進行している。

最近(6月7日)、東京の春日町で行われた東京集会では、家族会からは横田拓也事務局長(めぐみさんの弟)であった。

拓也さんは、支援者への気配りを示しながら、ニューヨーク及びワシントンDCでの「報告」を、具体的にしてくれた。聡明な人である。

その話から、トランプ大統領の「善人」ぶりが、垣間見られた。そのあと、西岡力会長から、詳細な情勢分析と今後について話があった。

◆西岡力先生は、第一人者

(6月『WILL』(7月特大号)に、「救う会」会長・西岡力先生による「見えて来た日朝会談への道筋」というタイトルでの投稿がある。

西岡先生は、拉致問題の≪第一人者≫であり、且つ、その分析は、詳しく、正しい。

その中の一文では、次の通りである。抜粋する。

◆全拉致被害者の即時一括帰国(=日本政府の方針)

全被害者の即時一括帰国を決断できるのは金正恩だけだ。

だから、事前に実務協議でそのことを詰めることはできない。実務者はその権限を持っていない。

従って、金正恩と条件をつけずに会って「国家にとって何が最善かを柔軟、かつ戦略的に判断」することを説得し、その決断を引き出す努力をすることしか道はない。

その意味で私は安倍首相が金正恩と条件なしで会うと明言したことを高く評価する。

我々としては、安倍総理に「全権委任」した。そうである以上、安倍総理を信じるべきであろう

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2019年6月16日 (日)

いずれにしても、死ぬな。死ぬ覚悟があれば、他の道を求めよ。必ずその道はある。(中国哲学者・加地伸行83歳)

◆老学者のコラム

『WILL』(7月特大号)に、中国哲学者・加地伸行先生(83)のコラムがある。

平易な書き方をしているが、心に響くものがある。

即ち、内容は、

①電通勤務の20代女性が、パワハラで自殺した事件、

当時30歳の薬局勤務の女性が、研究職志望が果せず、絶望(?)の上自殺した事件。

この2種の「女性の自殺」ついて、論評している。

◆自殺を踏み止まれ!

電通勤務の女性の自殺については、以前、野党が(労働行政の問題として)安倍総理・政府を追及した。

社会問題にも発展し、関係諸法律の改正に至った。

しかし、加地先生の視点は、安直に、「自殺」の原因を社会的背景にのみ求めるのではない。というものだった。

「自殺者」に対しても、厳しく、自殺を踏み止まる“心根”を求めている。

厳しいが、均衡のとれた、熱い心情が伝わる内容だ。

次の様に述べている。

◆死ぬな!

この方々の死に対して、もとより心より弔悼申し上げる。

しかし、しかしである。

自死することはなかったのではなかろうか。

と言うのも、電通であれ薬局であれ、それに代る職場は必ずあるはず。

なぜ転職を考えなかったのか、老生の理解を超える。(以上抜粋)

即ち、何であれ、死ぬな!というメッセージである。

◆自殺回避の道はある

例えば、薬局の女性の自殺に対しては、「烈しい研究競争は無理」「方向転換しての生き方を教えるべきだ」と、本人よりも指導教授らに問題がある。と痛烈である。

自殺の原因には、社会背景と、個人の心根・性格などが左右するが、一方的に偏るものでない。

しかし、自殺を食い止めるには、(どんなことをしても)自殺を食い止める強いメッセージを発するべきである。

83歳の加地先生は、次の様にメッセージを発した。

いずれにしても、死ぬな。

死ぬ覚悟があれば、他の道を求めよ。必ずその道はある。(以上抜粋)

 

 

 

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2019年6月13日 (木)

蓮舫(51)如きが、麻生太郎(78)を揶揄する

◆歌舞伎役者・蓮舫の登壇

先日の国会中継での出来事である。

立憲民主党の蓮舫議員(51)が質問に立った。

開口一番、演技力満点で、「総理!この国は・・・老後二千万円なければやっていけない。そういう国なんでしょうか?」と切り出した。

蓮舫が、「夜のニュース報道で放映される」ことを狙って、考えに考えた「セリフ」だろうが、笑えた。

(辻元と違って、蓮舫は笑えるので良い)

まるで歌舞伎役者のように、歯切れが良く、力が入っていた。

◆議場騒然・・・思惑通り

だが、安倍総理は、真面目だ。真面目過ぎる。

「年金百年安心」は破綻していない。と説明を続けようとする。

一方、野党席から「止めろ!」というヤジが飛び、「説明する、やめろ・・・」の応酬で、議事は、再三中断した。

その夜のメデイア報道は「老後二千万円問題で、議場騒然」という“見出し”を得る。

野党にとっては、「年金・老後の議論を深める」よりも「議場騒然」を狙っての事。

だから「思惑通り」と言えるだろう。

◆お笑いコント劇場

だから、真面目に「議論」をしない、「議論」が出来ない。

尤も、ジャーナリズムの多くは、「年金問題」「老後問題」を正しく解説する事は出来ない。

だから、「議場騒然」と言うしかない。報道するしかない。という事になる。

所詮、委員会での議論は、視聴者を意識した「お笑いコント劇」である。

だから、「お笑いコント」質問に対しては「お笑いコント」答弁で切り返せばよい。と私などは思っている。

そのように思うのが、健全なTV視聴者だと思う。

◆財務大臣・麻生太郎の答弁

だが、野党も、ジャーナリズムも、与党内ですら安倍総理の真面目な「答弁」を聴こうとはしない。

その点、麻生太郎副総理兼財務大臣は違う。

麻生氏が、不真面目というのではない。そうではなくて・・・

「短い質問」には「短く」答え、「論理的な質問」には「論理的に」答える。臨機応変に言える。極めて有能な人である。

而して、蓮舫議員は、更に“歌舞伎役者”を続けた。

「この報告書・・・麻生大臣は読みましたか?」と質問する。

麻生太郎大臣は、「最初の方は少し読んだが、後は読んでない」と答弁した。

◆鬼の首を取った「表情」

瞬時、野党席から「エエ!」(最近、エエ!という得体の知れない大袈裟な驚き表現?が多いが・・・)野次が起こった。

間髪入れず、歌舞伎役者・蓮舫は、「信じられない・・・」「5分あれば読める」と、鬼の首を取った「表情」をつくった。

蓮舫の真骨頂はここまでである。

この場面、夜のニュースで繰り返し放映された。

麻生氏にすれば、金融庁の報告書なるものは、そもそも「正式」なものでもない。政府の方針とも異なる。という「認識」だろう。

から、「読む気にもならず」「読む必要がない」だから、(報告書を)読まなかった・・・。という説明を一切省いて、「読んでない」と、短く答えたのだろう。

(さすが、「バカヤロー解散」の吉田茂元首相の孫だけある)

◆蓮舫を、嫌う理由

蓮舫と麻生太郎、どちらが正しいか?という類の問題ではない。

どちらが好きか?という問題なのである。

私は、好き嫌いで言えば、麻生太郎が好きで、蓮舫は嫌いだ。

それだけの感想しかない。それ以上の、コメントは必要がない。

蓮舫議員(51)と麻生太郎議員(78)と比較にはならない。

政治家として、“格の違い”があるのは自然の事だ。

しかし、蓮舫はその自らの劣性を隠して、麻生太郎氏を揶揄し、自らは「賢げ」な振る舞いをした。

そういうところが、嫌いだ。とだけ言っておく。

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2019年6月11日 (火)

中古マンションの対策(マンション管理組合の視点から)≪続≫

◆根拠のない直感

もう少し記述を、補う必要がある。

マンションの寿命について、物理的寿命について、80年~90年と述べた。

しかし、一般論であって個々の具体例ではない。

また、これは70年超生きてきた私の『直感』であって、建築理論上の根拠ではない。

◆一般論では、建物の「寿命」とは?

一般的に地震とコンクリート等の経年劣化による老朽化に伴い地震と、構造上の安全が保たれない状態、これを寿命の終わりと見做した。

だが、漠然とした「寿命」の定義だ。

識者によれば、鉄筋コンクリートの寿命(物理的耐用年数をさす)は、117年とする説がある。

まあ、これは一般論でもあるし、また政府の発表する『指針』なるものは、時の政治的思惑、あるいは経済的要請も反映されるものなので、神の如く「絶対」ではない。

◆資料データというものは信用しない

資料データというものは、すべて信用せず、懐疑的に見るべきだろう。

というのが私の信条である。

東京都の中古マンションの「実態調査」については、次の通りだ。

あくまで参考程度に見るべきだ。

旧耐震基準マンション2322棟について、管理組合を対象にアンケート調査を行った。

(1)耐震診断を実施したか?

  ①実施済 17.1% 

  ②未実施 82.9%

(2)未実施(82.9%)の内訳

  ①検討していない 58.9% 

  ②検討中 29.5%

  ③今後する 11.7%

即ち、実施も、検討もしないマンションが、全体の約半数(48,9%)である。

◆実施済の内訳

一方、実施済(17.1%)の内訳については、(震度6~7程度の地震に)

  ①倒壊の可能性がある 40%

  ②倒壊の可能性が高い 20%

すなわち、60%が、耐震補強工事の『必要性あり」と診断された。

しかし、実際に工事をしたかどうかは不明である。

◆データの読み方

約半数(48.9%)は診断もやっていない。やる予定もない。

この数字は、耐震診断に「無関心」という事ではなく、耐震診断の実際を知った上で、熟慮の上の判断である。

しかも、診断費用(300万円~800万円)は、拠出可能だとしても、耐震補強工事(数千万~数億円)は不可能だ。

というマンション管理組合の“現実的判断”がある。

私は、そう想像する。

◆不安の解消

中古マンションにいると、(高齢者は特に)不安感を覚える。

「不安感」の実態は、圧倒的に多いのは、身体の健康についての不安である。

年寄りの好きな昼間のテレビ番組では、「地震対策」よりも、イザという時の健康対策である。

千葉市でも、高層住宅マンションが多い美浜区ではエレベーターなどで、高齢者は病院まで行きにくい。

そのため、イザ急病者などのために空から「ドローン」で薬剤等の搬送を検討しているようだ。

「ドローン」の発着基地、空域管制の問題など、未だ課題も多いが、興味深い発想だと思う。

このくらいにしておくが、中古マンションの対策とは、人生の生き方の問題でもある。

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2019年6月10日 (月)

中古マンションの対策(マンション管理組合の視点から)

◆マンションの寿命

中古マンションの対策(マンション管理組合の視点)について少々述べてみよう。

人にも寿命があるように、マンション建物にも寿命がある。

マンション建物の寿命とは、①物理的寿命、②環境上の寿命、③管理上の寿命、この3つがある。

①物理的寿命とは、地震あるいは躯体・構造物の劣化により、構造上の安全が保たれない(倒壊の恐れがある)という文字通りの意味である。

②環境上の寿命とは、老朽化等により、衛生上・あるいは生活・防犯等の観点から劣悪な住環境(スラム化)の意味である。

③管理上の寿命とは、空き家の増加などで、収支バランスの悪化で、管理組合運営が成立しない。

◆経済的な寿命

その他に、敢えて私はそのように名付けたが、≪経済的な寿命≫というものがある。

経済的な寿命とは、47年である。

即ち、建物は減価償却資産である。

1998年の税制改正で、マンションの法定耐用年数は、47年と定めた。

しかし、耐用年数=寿命ではない。それは、経済的な寿命に過ぎない。

マンション購入で、住宅ローンを組む場合、基本的に償還期間が35年、(満80歳までに完済)である。

◆中古マンションを購入する場合の条件

築年数と法定耐用年数、そして住宅ローンの条件から、中古マンションを購入するには「担保価値」もない。

だから、中古マンションでは、ローンは(購入者の能力に関わらず)無理である。

キャッシュ(現金)でなければ、買うことが出来ない。

仮に、中古マンションの市場流通価格を、800万と査定しよう。

現金800万を持っているとして、40代前後の若いサラリーマン世帯が、果たして中古のマンションを購入するだろうか?

自分の余命と、建物の寿命(耐用年数)と、ポートフォリオを含めて、人生設計図を基に比較した場合、税制上の特典のある(3000万円程度の)新築マンションを買うだろう。

と私は思う。

◆中古マンションの運命は?

上記の場合、頭金800万円、住宅ローン2200万円の資金計画(ローン返済計画)で購入するだろう。

残念ながら、中古マンションは、そういう運命にある。

購入者が居なければ、価格は下がる。価格は下がっても、売れなくなる。

売れ無くなれば、「空き家」が増える。「空き家」が増えれば、管理組合の収入・支出状況が悪化(赤字経営)となり、積立金も底をつく。

残念ながら、それが中古マンションの辿る運命と言える。

◆耐震性と建物の評価について

次に耐震性から見た、マンションの評価について述べる。

①~③の寿命は、互いに関連して、深行する。

81年以前の旧建築基準法(旧耐震基準)のマンション建物の場合、①~③の深行は、急ピッチで、深刻である。

即ち、旧耐震基準マンションは、耐震性からみると、コンクリートの性能、鉄筋の量・間隔、施工法などが異なる為、一般的に、大きな地震への耐力が低い。

新しい耐震基準でいえば、(1)500年に一度の大地震(震度6~7)でも倒壊しない。(因みに、日本史で500年前と言えば、『下剋上』の戦国時代である)

(2)50年に一度の中地震(震度5)では、ほとんど損傷ない。というものである。

旧耐震基準でいえば、(2)50年に一度の中地震(震度5)では、倒壊しない(ひびが入る)程度。

500年に一度の大地震を想定していない。という、曖昧な内容である。

◆現実としてはどうか?

因みに、東日本大震災では、宮城県で最大震度7(マグニチュード9.0)を観測した。被害としては、地震より、その後の津波の方が深刻だった。

千葉県では震度5(習志野市では5強、千葉市稲毛区では5弱、千葉市若葉区では5強)を観測している。

しかし、私の住むマンション(千葉市)では旧耐震基準だが、目立つ損傷は発生していない。

耐震基準は、個々のマンションによって、立地・築年数・階数・形状・壁などの構造計算が異なる。

それ故、一概には言えない。

だから、上記の耐震基準は、飽くまで厳しく見た場合の目安であり、国交省や建設業者の「注意喚起(警告)」キャンペーン(警告をしたぞ!)に過ぎないとも言える。

◆建物耐震よりも、身の安全を優先せよ!

誰だって、カネがあれば耐震補強工事をする。

それでも効き目が無ければ「新耐震基準」のマンションを買うだろう。

だが、現実は「老後」の事を考えれば、そうはいかない。

私個人としては、「いつ来るか分からない」大地震への備えとして、大規模積立金を取り崩し「耐震補強工事」をするより、「確実」にくる老後を、どう快適に生きるかの方が、遥かに重要である。

従って、自助努力でやれることは(専用部分の柱、梁、隅だけでも)制震テープ工法を施す事、それで揺れを軽減するくらいである。

地震の際、身の安全を第一に、揺れを軽減すること。

先ず地震直後の家具の転倒を防ぐ、火災を防止する、生活必需品の備え、等々である。それが、賢いやり方だ。

◆管理組合としてすべきこと

現実的に管理組合として、やるべきこと、できることは、ある。

防災対策の一環として「制震テープ工法」は、その一つかも知れない。

これだと、詳しくは分からないが、安価で済みそうだし、各戸の専用面積が減ることもないし、美観上の問題もない。

逆に、本格的な耐震補強工事の場合、違う。

建築業者は、(商売上)あれこれ言って、耐震診断を勧めるのだが、その結果「不合格」の烙印を押される。

それは中古マンションの不動産取引上の重要事項明記となるから、マンション流通価値は、さらに下がる。

マンションの価値は、立地と築年数で決まる。

仮に中古でも「耐震基準適合証明書」が取得できない(不合格)となれば、さらに流通価値は下がるのは、必至である。

管理組合としては、すべきことは何か?

賢いやり方は、「過剰」ではなく、身の丈に合った災害対策である。

(どう言おうが、建物は、減価償却資産である、将来取り壊される運命にある)

◆ホンネを言うならば

(東京都の調査で、分かっている事だが)旧基準マンションの管理組合が、「耐震診断」を敢えて実施しない。

その理由が、そこにある。

即ち、耐震診断の結果は目に見えている。だから、やるだけ無駄だ。というのが、ホンネである。

耐震改修工事をしたとしても、それで必ずしも新耐震基準と同等の耐震性を確保できるわけではない。

マンションの物理的寿命は、凡そ80年から100年である。あるいは、もっと長いかも知れない。

即ち、一般的に地震とコンクリート等の経年劣化による老朽化に伴い地震と、構造上の安全が保たれない状態になるのは、80年~90年である。

しかし、マンションは、其れとは別に、築50年を過ぎたころから、急激に老朽化が進行し、大規模修繕積工事の頻度も高まる。

当初の予定(長期修繕計画・約30年)に反して、積立金の再三の値上げにも拘らず、積立金が不足してしまう。

◆老後の過ごし方

年金生活の「老人夫婦世帯」(区分所用者)にとって、毎月ギリギリの生活だから、管理費、積立金の「値上げ」はかなりの痛手である。

例えば、月額2000円の「値上げ」なら、それは消費税2%に匹敵する、と思う。

支払い不能になれば、裁判手続きで競売になる。

買手が決まらないと、(その部屋の)管理費、積立金は未入金となる。また、競売だからと言って、買手が決まるとは言えない。そのため、空き家のままになる。

管理組合の運営が困難になる。値上げすれば、前述のように悪循環を起こす。

息子や、娘たちの夫婦と同居しようにも、三世代住居には狭すぎる。それに設備も、古い仕様である。

大概の中古マンションは、居住者は平均して高年齢である。

それ故「中古マンション対策」とは、即ち「老後対策」である。

◆下山するように(五木寛之)静かに豊かな余生を送る

更に言えば、経済的理由から、マンションは物理的寿命を待たずして、その寿命を迎える。

平均して、都心部では築60年~築70年が、建て替え時期となる。

これは、マンション建て替え業者の経営計画により、進められる。

マンション管理組合としては、如何ともし難い。

而して、中古マンションは「建て替え」に進まざるを得ない。

そして、そこに至るまで、マンションの流通価値は、年々下がる。

あとは、経済法則から、「マンションの建て替え」は、資金とノウハウを持った専門業者がやる。

住み慣れた処を離れるのは、辛い。

感傷的にさえなる。

漢詩人・劉希夷の「已に見る松柏の摧かれて薪と為るを、更に聞く桑田の変じて海と成るを、古人復た洛城の東に無く、今人還た対す落花の風」の美しい感慨に満ちた句が、心に浮かぶ。

専門業者は、いづれ「全戸空にして」建物を解体、再開発事業として建築申請して、全く新しいマンションを建築し、入居者を募集するだろう。

だが、それまではまだ暫くはある。

余生を、充実して終わりたい。

年金生活者(老人)の多くは、住み慣れたマンションで静かに、(作家の五木寛之のように)下山するように、余生を送りたいと思っている筈だ。

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2019年6月 8日 (土)

≪漢詩鑑賞≫府を罷めて旧居に帰る(白楽天)

白楽天、62歳の作品である。

役人生活を辞めて、晩年の詩と酒と琴を友として、雪月花を楽しむ日々、ホッとした気持ちを虚心坦懐に詠っている。

詩は五言排律である。即ち、始めの二句と結びの二句を除いて、全て対句の技法になっている。

漢詩鑑賞の楽しみでもある。

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(ふ)を罷(や)めて旧居に帰る

陋巷乗籃入  陋巷(ろうこう)(かご)に乗りて入り

朱門掛印廻  朱門印(いん)を掛けて廻(かえ)

腰間抛組綬  腰間(ようかん)組綬(そじゅ)を抛(なげう)

纓上拂塵埃  纓上(えいじょう)塵埃(じんあい)を払う

屈曲閑池沼  屈曲(くっきょく)せる閑かなる池沼

無非手自開  手自(てず)から開くに非ざる無し

靑蒼好竹樹  青蒼(そうそう)たる好き竹樹(ちくじゅ)

亦是眼看栽  亦た是れ眼のあたり看て栽(う)

石片檯琴匣  石片に琴匣(きんこう)を檯(ささ)

松枝閣酒盃  松枝(しょうし)に酒盃を閣(お)

此生終老處  此の生老いを終(お)るの処

昨日却歸來  昨日却帰(きゃくき)し来たる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

◆意味

官を辞めて役所を去り、竹の籃に乗って旧居(朱門)に入った。

腰に帯びる印綬(組綬)は放って身軽になり、冠のひも(纓上)の塵(塵埃)をはらった。

くねくねと曲がる(屈曲)閑静な池は、ここもかしこも自分が手を入れて開いたものだ。

青々とした竹林は、自分で監督して植えたものだ。

石の上に琴の箱(琴匣)を載せ(檯げ)、松の枝に杯を置いて(閣く)、

琴酒の喜びを思う存分味わった。

昨日やっと自分が一生終えるところに帰ってきて、

はじめて心底ほっとしたのだ。

◆対句例(隔句対)

腰間組綬を抛ち・・・(対句)纓上埃を拂う

屈曲せる閑かなる池沼・・・(対句)靑蒼たる好き竹樹

手自から開くに非ざる無し・・・(対句)亦た是れ眼のあたり看て栽(う)

石片に琴匣(きんこう)を檯(ささ)げ・・・(対句)松枝に酒盃を閣(お)

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2019年6月 7日 (金)

殺人者に対する憎悪感情を忌避する風潮

◆「ある抗議書」(菊池寛の小説)

『忠臣蔵』(小林秀雄)という文芸評論を読んだ。

その中で、菊池寛の傑作「ある抗議書」についての記述がある。

要約すれば、此の様になる。

自分(主人公)が愛していた善良な妹夫婦が、無頼の強盗の為に惨殺された様を目撃した。

主人公は、現代の常識人なのだが、殺害者を殺したいと思うほど、深い憎悪を経験する。

◆裁判で死刑判決に

やがて、犯人は捕まり、裁判所で死刑の判決を受ける。

犯罪者は公平に審判され、彼は犯行を是認したばかりではなく、悔悟し、キリスト教の洗礼を受け、歓喜して死刑を待つに至った。

しかし、主人公には、妹夫婦の死に様が忘れられない。

彼にとっては、善良な彼等への愛情は、殺人者への憎悪と離すことが出来ないのだし、この疑いのないような悪人の罪を、その人間から離して考えようもない。

(以上抜粋)

◆罪を憎んで、人を憎まず

ところで、話はまだ続く。

法廷は罪を憎んで、人を憎まずという建前である。

(即ち)法廷は、人を憎むことは出来ない・・・。

犯行を成立させた社会的或は心理的条件をことごとく分析し理解しなければならぬからだ。

そんな事が出来る道理もないわけだが、ともかくやってみなければならない。

やってみると、犯行は、次第に止むを得なかった行為に、必然的だった物の動きに似て来る。

◆罪も憎まず、人も憎まず

抜粋を、更に続ける。

犯人はだんだん病人か狂人に似て来る。

社会生活に単に不適当な人間を、どうして憎めよう。

だが、法廷は、実を言えば、罪さえ憎んではいない。

≪罪も憎まず、人も憎まず≫

(法廷は)社会の秩序維持の為に、ただこれを恐れるだけだ。

(それ故、極刑という)世間への見せしめという消極的な、且つ曖昧な目的を持つに過ぎない。

◆小林秀雄の核心

小林秀雄は、『忠臣蔵』で、仇討について書いている。

「復讐の情念を奪えば、命を失う劇である点で、(シェークスピアのハムレットは)「忠臣蔵」とは変りはない。

また、「復讐心というものは、そんなおとなしい生き物ではないだろう」と。

そのような文脈で、菊池寛「或る抗議書」を抜粋しているのである。

「社会的制裁の合理性合法性が、人々の眼をかすめて、包み隠して了ったものは、いったい何であろうか」

と菊池寛が、率直に問うている事を述べている。

此の辺りが、小林秀雄の核心である筈だ、

と私は感じる。

◆最近の三つの出来事

扨て、今日の私のブログは、最近の出来事についてである。

最近、身に覚えのない人が、突然、白昼、殺されている。

具体的に言えば、次の三つである。

①川崎市の事件、社会に不満を持つ男が、児童などを無差別に切りつけた。二人死亡。男は自害した。

②元エリート官僚の殺人事件、家庭内暴力に悩んだ父が、我が子をメッタ刺しにして殺した。

③高齢ドライバーによる人身事故(数件)、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、暴走し通行人を殺した。

◆別個・個別の事案

これらの事件(事故)は、別個・個別な事案である。

加害者(被疑者)と被害者が居る。

結果、被害者は「死亡」という点では、共通しているが、前述の事件(事故)は、互いに無関係で、別個な事件である。

その事を、先ず踏まえるべきだ。

そのように検証すべき事である。

しかし、メデイアの報道では、このような事件には、「社会的背景」という共通項を持たせるようだ。

◆メンタルケアの専門家の知見

個々の事件(事故)について、詳細な事実、原因などはまだ分からない。

捜査中である。これが現状だ。

しかし、メデイアに登場した専門家は、事件とその「社会的背景(現状)」を連結させて、語るのである。

その話しぶりを聴くと、被害者よりも、加害者(及び同じ境遇の人達)への「同情論」が重きを得ているようで驚く。

“事件(事故)について、其れを生みやすい土壌、社会的病理がある”、という一部ジャーナリズム特有の癖(くせ)と云うべき発想がある。

◆何を教訓とすべきか?

三つの事件(事故)から、何を教訓とすべきか?

川崎市の事件については、立川志らく師匠の「死ぬんなら、一人で死ね」という発言を、批判したテレ朝の玉川某は、典型的なジャーナリストの癖【クセ】を持っている。

(このような「被害者の側に立った憎悪感情を排した」「賢しらな」発言についての反論は、以前述べた)

菊池寛小説のように、「罪を憎ん憎んで、人を憎まず」を踏み越えて、最早「罪も憎まず、人も憎まず」の領域である。

元エリート官僚の殺人事件の場合は、逆説的な意味で、社会的病理の問題である。

しかし、その「一般的社会の病理」の解決と、事件の解明とは、別個であるし、そうであるべきだ。

更に、高齢ドライバーの「免許返上」については、(地域的その他の)事情を言うが、私は反対だ。

(免許返上で)車を運転しない事の「不便さ」を理由にしている。

「不便さ」くらいは、我慢せよ!と私は主張したい。

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2019年6月 5日 (水)

安倍首相は保守か(正論7月号)という無意味な設問

◆凪(なぎ)のような設問

正論7月号の特集は、「安倍首相は保守か」である。

この特集タイトルは、『正論』に似合わないが、高名な投稿者から、購入して読んだ。

随分、波風のない「凪(なぎ)」のような設問ではある。

今更、安倍総理が「保守か?否か?」を説くこと自体、私には無意味に思える。

すでに答えが明白である。

安倍首相は、(間違いなく)保守である。

◆国民の圧倒的多数は、保守である

厳密にいうならば、多数の国民(割合で云うならば、恐らく85%)と同じように、安倍首相は保守派である。

其れが答えである。それ以外の答えがない。

保守とは、何か?

一口で云うならば、右左のイデオロギーとは無関係である。

天皇を国民統合の象徴として戴く国柄、伝統文化を守り、祖先を尊崇し、家族・地域ふるさとへの想いを育み、自然と国を愛する、という日本人としての当り前の心情を、保守という。

少なくとも、私はそう思う。

国民の圧倒的多数が、保守である。

保守とは、特別な人々ではない。という事だ。

◆右翼とは?

昔のことだが、自称右翼の大物が、次の様に語った。

「天皇を守ることが右翼だ」「天皇を守れなければ、右翼とは言えない」

このように、“右翼の定義”をした。

敗戦直後(昭和20年代)で、冷戦下で共産思想が横行した時代。

象徴天皇が定着していなかった時代背景が、窺える。

「天皇を守れなければ、右翼とは言えない」という、天皇を独り占めにしようとする、あるいは、天皇を「武士」として守る、という特権意識が、露見される。

これは、自称右翼の“自尊心”である。

しかし、このような特権意識は、「天皇を尊崇する事=右翼」、あるいは「保守=右翼」という誤解を世論に蔓延させた。

そういう時代であった。戦後70年、色々あった。

◆安倍首相は保守か?

少々脱線したが、話を戻す。

私の、保守の定義については、既に述べた。

保守本流、あるいは真正保守という「言い方」を、私は嫌う。

(天皇の親衛隊とする)前述の右翼のように「自らの存在価値」を特別なものとする事、天皇と国民との間に割って這入り、自らを特別なエリートとして一般国民と区別する事、それは、独善的ですらある。

保守は、単に、保守でいいのだ。

保守を矮小化する事に過ぎない。

だから、私は嫌う。

「安倍首相は保守か?」とは、その延長で考えるならば、無意味な設問である。

保守派とは、特別な人々ではなく、この設問は、少なくとも私の視界には、無意味に映る。

しかし、設問は無意味だが、論者の主張は傾聴に値する事が多い。

少し、以下、抜粋する

■桜井よしこ(ジャーナリスト)

「保守」の定義が必要だが、容易でない。

福田恆存は、「保守的な態度といふものはあっても、保守主義などといふものはありえない」と断じた。

保守派はその態度によって人を納得させるべきであって、イデオロギーによって承服させるべきはないし、またそんなことは出来ぬはずである。

安倍首相における保守の真贋は、皇室と憲法にどう向き合うかで試される。

■萩生田光一(自民党幹事長代行)

安倍晋三という人の頭の中には、常に安全保障があるのです。

経済でのっぴきならない関係(TPP、日本・欧州連合の経済連携協など)を作っておけば、安全保障上ももめない。

安倍首相の心根はまったく変わっていない。

政治家としての最終目標である憲法改正に突き進むために、リアリストに徹しているのではないでしょうか。

■阿比留瑠比(産経新聞論説委員)

「保守」が異端視された時代を経て、安倍氏は空論を排し現実路線を貫いた。

少なくとも、安倍首相と仲間たちが自民党内やマスコミ主流派らから冷笑されながらも戦い、一つひとつ積み重ねて来た努力が無ければ、今のように「保守」という位置づけが当たり前のように通用する時代にはなっていなかった。

リベラル左派とみられていた立憲民主党の枝野幸男代表ですら、「真の保守は安倍首相ではなく、私だ」と主張するようになった。

「安倍氏は保守か」などどうでもいい。

■小川榮太郎文芸評論家)

日本の左傾化は世界で共産主義が敗退した中で寧ろ一挙に進行した。

第二次安倍政権とは、何なのか。

「戦後レジームからの脱却」ではなく、「円高デフレ不況からの脱却」である。極めて現実的な、イデオロギー性を封印してのスタートだ。

人口激減に立ち向かふ事と憲法9条改正に立ち向かふ事は、日本人が「国家」を取り戻す最大の契機となろう。

■佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

国家を形成する根本原理(國體)を護持することが安倍氏の目的である。

このような保守の外交が安倍氏の特徴だ。

問題は、日本のマスメデイアと有識者がイラン情勢の緊張が北朝鮮問題に与える影響を理解できていないことだ。

■湯浅博(国家基本問題研究所主任研究員)

戦前期に左右の全体主義と闘った河合栄治郎は、その生涯を「自由の気概」をもって生きた唯一の知識人であった。

戦後世界を形成してきた民主主義、法の支配、人権などの自由主義の価値観が揺らぎ始めたいま、日本の指針としてこの「戦闘的自由主義者」の強靭な精神が見直されている。

冷戦時代を通じて、それは右派と左派の対立ではなくて、「全体主義と自由主義」の対立であった。

上智大名誉教授の渡部昇一氏にいわせると、日本のジャーナリズムが全体主義という言葉を使わないのは、使ったとたんに「日本には右の全体主義は無きに等しく、左の全体主義のみ多いことが歴々然としているからである」と見抜いていた

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2019年6月 2日 (日)

『本居宣長』(小林秀雄著)と、<言葉狩り>について

◆言葉狩り「戦争」

再三、このブログでも述べている事だが・・・。

私は、<言葉狩り>の風潮を、恐れる。

例えば、丸山議員の「酩酊発言」を、「戦争をしなければ・・・」部分だけ切り取る。

憲法9条(戦争放棄)に違反する。

とする批判。

今朝の、フジテレビの橋下徹氏の主張に賛同する。

即ち、国会という言論の場で、丸山氏を呼んで、〝戦争発言”を批判すべきだった。

丸山議員は、自らその弁明機会を放棄した。

だから、国会法に遵って懲罰は、当然であろう。

◆「戦争か、平和か」

今朝『サンデーモーニング』(TBS)で、寺島実郎氏が、「力による平和」(トランプ発言)を、流暢に批判した。

「戦争」あるいは「力」という言葉への、条件反射的な批判である。

少なくとも、世界の平和は、軍事力バランスによって成り立っている。

その均衡が破れたときに戦争が起こる。

従って、現代社会(特に日本の場合)では、日米同盟という力の誇示が、東アジアでの平和を維持するために必要である。

その事実を、寺島氏は知らない筈がない。

寺島氏の批判は、関口宏番組への忖度なのか?

関口氏のお花畑脳内に迎合した、極めて残念な「低レベル」なものである。

◆文章への批判から「単語」への批判

最近、<言葉狩り>の傾向は、少し変化している。

批判する対象が、文章全体(あるいは講演全体)の内容ではない。

それは、短いセンテンス、あるいはもっと切り詰めた「単語」への批判に、変わっている。

最近では、桜田大臣の「女性は3人以上生んで・・・」という発言を、批判している。

桜田氏の発言は、(マスコミによれば)失言のカテゴリーに入れている。

つまり、桜田発言=失言というイメージが定着していて、議論の余地がない。

反安倍キャンペーンの一つである。

◆レベルの低い「無能、バカ発言」

だが、桜田氏の発言は、丸山発言と同様「無能、バカ発言」なだけである。

蓮舫議員が言うように、「全女性を傷つけている」とまでは言えまい。

批判に値しない「無能、バカ発言」という事にしなけ

れば、ならない。

そうでなければ、政治家の質が、下がる一方である。

そうしなければ、「失言ゴミ捨て箱」はすぐに満杯になるだけ。

このような、言葉尻の批判は、最早、枚挙にいとまがない。

この事について、即ち言葉、あるいは言葉の使い方について、考えてみたい。

◆言葉の使い方とは?

先ず、『本居宣長』(小林秀雄著)から、以下抜粋する。

言葉の使い方とは、心の働かせ方に他ならず、言葉の微妙な使い方に迂闊(うかつ)でいる者は、人の心ばえというものについて、そもそも無智でいる者なのだ。

雑に言えば、この要点は、「言葉の使い方は、心の働かせ方」という部分である。

具体例として、上古の人々の、「一番大切な、親しい、生きた思想」を、例えば、天照大御神と名付けることで、「天照す」徳(とく)が露わになる。

『本居宣長』の核心である。

◆心の働かせ方

この感情が、彼等の心ばえを領していた。そういう事を示唆している。

『本居宣長』(小林秀雄著)からの、抜粋をもう少し続けよう。

諸概念の識別標として、言葉を利用し、その成功に慣れて了うという、避けがたい傾向は、どうしても、心の柔らかさを失わせ、生きた言葉を感受する力を衰弱させる。

・・・その第一歩として、物に名を付けるという行為がある。

物を理解するという知的行為が掩(おお)い隠して了った行為があるのだ。

神々の名を註釈しつつ、宣長が痛感したのはその事だった。

◆古文の結晶「和歌」

著者・小林秀雄氏の分析では、天照大御神という御号を分解してみれば、名詞、動詞、形容詞という文章を構成する基本的語詞は揃っている。

即ち、天照・・・動詞。大・・・形容詞。御神・・・名詞。という構成である

私にとって、衝撃的な指摘である。

現代文より古文の方が、短い言葉の中に多様な意味を含んでおり、その結晶が「和歌」なのだろうと、私は推測した。

少々脱線したが、『本居宣長』が本旨ではない。

「言葉狩り」が進行すれば、どうなるかという、私の恐れが本旨である。

◆「一人で死ね」について

言葉狩りについて、これで最後にする。

連日、一部マスコミで、(川崎市の無差別殺傷事件について)立川志らく師匠の「死にたいなら一人で死ね」という発言に対して、批判が繰り返されている。

この発言は、一般の人が加害者に対して抱く、ストレートな感情表現である。

私は、少なくとも共鳴する。

即ち、抑制された中での発言。

「死にたいなら一人で死ね」は、極めて健全な、“憎しみ”の表現である。

「言葉狩り」がここ(感情)にまで触手が伸びるならば、どうなるか?

残るのは、無味乾燥な世界、感情の無いコメントだけである

そのような、「気味の悪い世界」の到来には、私は、断固拒否する。

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