≪漢詩鑑賞≫洞庭に臨む(孟浩然)
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洞庭湖を眺めるには、東岸にそびえる岳陽楼に登るのが一番だと言われている。
古来、詩人が楼に登って、湖を眺め、その感動を詩に詠った。
『洞庭に臨む』(孟浩然)もその一つである。
作者の孟浩然は、科挙に及第できず、各地を放浪した詩人である。
この詩(『洞庭に臨む』)は、洞庭湖の壮大な自然に対比して、才を抱きつつも世に受け入れられない孟浩然の<悔しさ>が表れている。
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洞庭に臨む 孟浩然<五言律詩>
八月湖水平 八月湖水平なり
涵虚混太淸 虚を涵(ひた)して太清に混ず
氣蒸雲夢澤 気は蒸す雲夢沢(うんぼうたく)
波撼岳陽城 波は撼(ゆる)がす岳陽城
欲濟無舟楫 済(わた)らんと欲するに舟楫(しゅうしゅう)無し
端居恥聖明 端居(たんきょ)聖明(せいめい)に恥ず
坐觀垂釣者 坐(そぞろ)に釣(ちょう)を垂るる者を観て
徒有羨魚情 徒(いたず)らに魚を羨むの情あり
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空気の澄みきった仲秋八月の洞庭湖は、渚や洲が姿を隠し、湖面は平らで果てしなく広がっている。湖の水は大空(虚)をひたし、最も高い太清天までとどき、天空と湖水が混じりあう。
湖面から立ち上がる雲や霧は、雲沢・夢沢の大湿地帯いちめんにたちこめ、湖面に立つ波は、ここ岳陽の町全体をゆり動かさんばかりである。
かくも広大な湖面を渡ろうと思っても、舟もかじ(楫)もみあたらない。かといって、何もせずにいれば天子の恩徳に対して自らの不明を恥じいるばかりだ。
見るともなく釣り糸を垂れている人をながめては、ただ魚を得たい気持ちを起こすばかりである。
※わたらんと欲するに舟楫無し・・・湖面を渡ることになぞらえて、官職につくにも「つて」が無いことを暗示している。
※徒に魚を羨むの情あり・・・ここでは官職を得たい気持ち。
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